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業務の可視化と現場の知恵を共有する「仕事のプラットフォーム」

 可能性をデザインせよ! 

TEL 025-531-1151

〒942-0036 新潟県上越市東中島1943-91

代表者紹介IKEDA HIDETOSHI

池田 秀敏 プロフィール

 仕事のプラットフォーム改善コンサルタント
  池田 秀敏 

新潟県上越市(旧大島村)生まれ。上越市在住。

流通業を経てシステムエンジニアとなり、昭和58年に配管CADシステム設計に従事。
複雑な機能を文章で伝えることに限界を感じ図解化の試行錯誤に取り組み始める。
作成した図解は10万枚を超え、「日本で一番図解しているコンサルタント」と呼ばれている。
図解を使った業務改善・問題解決・論理思考・図解の講義を受けた受講生は延べ4000名。
現場で使える事例の豊富さは、国内外でもダントツで他を圧倒。
WEBに公開している図解だけでも1000枚を超える。

特に、ミスをクレームに発展させないクライシスマネジメント(危機管理)の図解には定評がある。
クライアントは大手メーカーが多く、製薬企業、外資系ヘルスケア企業、食品企業、自動車企業の
品質管理、研究開発部、技術開発室の担当者が多い。
「技術知識が無い担当者とも話がしやすくなった」、「誰が見ても分かる業務フローができた」、
「ミスがクレームに発展せずコストが3分の1に減少した」など喜びの声が届いている。

「可能性をデザインせよ!」という理念のもと、業務の可視化と現場の知恵を共有する
プラットフォーム設計に手腕を発揮している。また、コンサルティングでは加盟店募集の図解資料を
作成し、2600店の加盟店をわずか8ヶ月で3200店へ飛躍させるなど数多くの実績を持つ。
「問い合わせが30%増えた」、「営業の契約スピードが2倍に加速した」など、若手を即戦力化さ
せたい企業からも重宝されている。

現在は、中小企業大学校で講師を務めるなど精力的に活動。社内で使える図解を描き
たい担当者からの依頼に応え、「池田式・図解の通信教育」の準備を進めている。




詳しいプロフィール(SEになる前の体験が、基礎になっています)


■就職を考えた時 ------------------------------------------------

●仕事を考える出発点

中学生の頃から電気関係が好きで
高校生の時には、アマチュア無線をやっていました。

その関係から、専門学校の電子工学科にはいりました。
まったく面白くなく..
当時流行っていたブルース・リーにあこがれて
空手部に入って練習ばかりやっていました。

 ブルース・リー - Wikipedia

子供の頃から、
どちらかと言うと、いじめられる方だったので
強くなって、いじめられないようになりたいという思いもありました。

19歳の時です、銭湯でまったく知らない人から
ブルース・リーのような体だと言われたことがあります。
鍛えてましたから。
今はもう過去の栄光です。

そんなことをしていたので就職を考えた時に悩みました。

それは..
 --------------------------------------------------
 自分は
   ・何を、したいのか?.....好きな仕事は何だろう?
   ・何が、できるのか?.....得意なことは何だろう?
   ・何の、役に立つのか?...価値を生み出す仕事は?
 --------------------------------------------------
と。

自分の、頭の中には答えになるものがありません。
そのヒントになるような、知識や経験もありません。

あせります。

    ..考える材料がないので、
      考えても、どうどうめぐりになってしまいます。
      だから、「考える材料」をインプットする必要がありました。

やった事は..

新聞の切り抜きをしたり、
雑誌を読んだり図書館に行ったり、講演会に行ったことです。
東京にいたので、無料や安価な勉強の機会がたくさんありました。
新聞に小さな無料の講演会の記事を見つけて参加しました。

創刊されたばかりの「就職情報」という週刊誌にも影響されました。
ビーイング、フロム・エー、とらばーゆ の前身となった雑誌です。

この雑誌を、毎週続けて買って勉強しました。
 ・どういう業種が募集しているのか?
 ・どんな社員を募集しているのか?
特に、人事の課長や部長の言葉が時々特集されていました。
これを切り抜いて、何度も読んでいました。

この雑誌のおかげで、
職業観というか、仕事への考え方の基礎ができたと思います。


●人生を方向づける出会いがありました

出会ったのは..
渥美俊一氏の書かれた「ビッグストアへの道」という本です。
氏は、海外のチェーンストアの理論を日本に導入した人です。
全10巻、すべて買って読みました。
この本は、スーパーマーケットの運用について書いてありました。

  渥美俊一 - Wikipedia

本の中の、作業効率を高める部分にピンときました。

   ..新しい視点でした。
     自分の持っていない情報で道が開けるようでした。
     今でも、その本のページの図(挿絵)を覚えています。

目標が決まりました。
食品スーパーの作業手順を効率化する仕事をしたい
とおぼろに考えるようになりました。

何をするのか、
具体的でなく明確でもありませんでしたが進む方向は決まりました。

今、図解をたくさん公開しています。
若い人が仕事を考えるキッカケにしてもらえたら嬉しいです。



■流通業で働いた時期 ------------------------------------------------

●無謀な挑戦が始まりました

その目標を、どう実現しようかと考えました。
今でいう、キャリアプランですね。

なんと..
 ・最初はコンビニで、小売業の概要をつかんで
 ・小規模→中規模→大手スーパーを、1年ごとに順に移って
 ・生鮮3部門(精肉・鮮魚・青果)を、全部経験しよう
と、今から思えば(当時でも)無謀です。
間違いなく若気の至りです。

当時、スーパーは伸び盛り。
コンビニも出始めたばかりでした。
セブンイレブンも、まだ朝7時から11時までの頃でした。

入社したのが、24時間営業のコンビニです。
どう考えてもセブンイレブンの真似をしたコンビニです。
ノウハウが無い分、根性で勝負です。

社員研修は、軍隊調の号令が飛びます。
一週間の研修では、号令に従って唱和し歌を大声で歌っていました。
「目標5千店」という会社の目標を歌にしたものです。

仕事は、24時間営業のお店を、
男性社員2名と昼間5時間のパートで回します。

男性社員は24時間交代。
朝、入って翌朝に売上の銀行振込と品だしをして、
26時間くらい勤務します。

12時間交代だと実質14時間程度の勤務になってしまい、
家に帰ってもゆっくり休めません。
そこで、24時間交代になりました。

もちろん仮眠なんてありません。
昼間、パートさんのいる時に少しだけ休めるくらいです。
今なら、ブラック企業間違いなしです。

お店は、どんどん店舗展開していたので、
すぐに店長になれました。
当時、30代・40代の中途採用者が多かったので
私が一番若い店長でした。

毎朝、お店の前の道路を掃除していました。
うちのお店の菓子パンの袋やお菓子の箱などが捨ててあるんです。
結構、遠くまで掃除していました。

それを見ていて気にいってくれたのか?
近所のおばさんが
 「良い子がいるのよ、会って見ない?」
 「あなたまだ若いでしょ、30くらい?」
と..
 「21歳ですが..」
と答えると..
そのお見合い話は、無くなりました。

そんなに老け顔だっか?

昔のことなので、まだ若い人が店長をやっているとは
想像もしていなかったと思います。


店長会議が月一回ありました。
24時間勤務明けの午後から出席していました。
全員が、30時間近く一睡もしないで参加します。

そこで号令をかけたり唱和や歌を歌います。
唱和で覚えているのが「精神4カ条」です。
40年近く前のことですが、まだ覚えています。

  精神4カ条
   1.返事と同時に行動せよ
   2.今やらねば、いつできる
   3.自分がやらねば誰がする
   4.24時間仕事と思え

こんな標語を、大きな声で唱和するんです。
「目標5千店」の歌は研修で覚えただけなので忘れます。
その上、徹夜明けです。
歌えないと怒鳴られて、歌えるまで歌の練習です。
本来、店長のやるべき会議なんてほとんどやりません。

   ..根性や精神論で追いこんでも限界があります。
     根性も必要だけど、もうちょっと何とかならないか?
     会社の仕組みとして
     店長を支援する必要があると感じました。

その店長時代に、仕事をしながら、
お店の運営で使っていた帳票などをすべてコピーしておきました。
将来の参考にしようと考えたからです。
今でも、自分の仕事の出発点として持っています。



●小規模店の精肉部門へ

次は、小規模のスーパーです。
江戸川区にある2店舗のスーパーの
本店の精肉部門へ転職しました。

精肉部門は、初めてです。
包丁を持つものはじめてです。
でも、楽しくて、楽しくて...
親切なチーフに教えてもらいました。
当時、50代くらいの方だったと思います。

あれもやりたい、これもやりたいと言うと..
「まだ、早い!」とは、一度も言われませんでした。
笑いながら、何でも教えてくれました。
やらせてもらいました。
いまだに、楽しい思い出です。

   ..求めれば、応援してもらえると実感しました。
     今でも、若い人がもっと求めれば
     応えてくれる年配者はたくさんいます。

でも、精肉部門のチーフは
経営者と、何か確執があったようです。
中小企業では、社員が辞める時は簡単です。
   「明日から来るな」
   「来ない..」
となったようです。
それが、当時の小さなスーパーの現実でした。

社長から「明日から、君が精肉部門のチーフだ」と言われました。
生肉部門に入って4ヶ月で、精肉部門を任されるようになりました。
それまでに、作業はすべてできるようになっていました。
ですので、日常の作業で困ることはありませんでした。

   ..今から思えば、作業ができるだけでした。
     本質は分かっていませんでした。  


1年がたち..
次へ



●計画が崩れ、また精肉部門へ..配属先で「総スカン」をくらう

次の計画では、中規模の鮮魚部門です。
11店舗を運営する会社に転職しました。
渥美先生の本によると11店舗からチェーン店です。

場所は、錦糸町からバスで少し行ったところの
スーパー併設の精肉と鮮魚の加工センターです。
上野での本社面接で、鮮魚希望と言ってOKをもらって入社したはずが..
当日現場に行ったら、経験者だからと精肉部門に回されていました。
人事担当者との約束は当てにならないんですね。

あんなに親切で、こちらの意向もしっかり聞いてくれたのに、
笑顔の裏で別のことを考えていたのでしょうか?
  
  ..私の採用は、
    単なる頭数、員数合わせという扱いだったんだと思います。
    頭数ではない、他の人と違う、
    指名される人間にならないとダメなんですね。

約束が違うと不満顔で、
経験者なので、「何でもできます!」と
ちょっと天狗になって精肉部門に入って行きました。
でも、何もできませんでした。
総スカンです。

そこは、男性10人ほどと、
フルタイムとパートの女性15人位の大所帯です。

こなす量も質も、
私の1年の経験では太刀打ちできないほどの違いがありました。

7店舗分の精肉の注文通りに
肉のパックを時間までに作る必要があります。
スーパーの冷蔵ケースに並んでいる
あの、お肉のパックを作っていました。

作業が山のようにありました。
そこに立ち向かうには、
ほとんど我流の精肉の1年間の経験では無理でした。



●どんどん仕事が面白くなってきた

始めは、総スカンだったんです。
でも、頑張って仕事をしているうちに、
だんだんと一人前に扱ってもらえるようになりました。
    
入社して1年くらいたつ頃には、
チーフが休みの日はチーフの代わりに仕事の段取りをしていました。

そうなるためにやったことは
細々した作業をすべて引き受けることと、
パートさんの仕事の作業配分を行うことでした。

年配の職人さんは、
細かな作業を動きまわってやることを好みません。
パートさんの仕事の段取りの面倒をみるのは
それこそ面倒くさいんのです。

職人として難しい所を、自分の世界に入ってやりたいんです。

私は、目指しているのが作業効率を考えることなので、
人のやりたがらない、これを少し、あれをちょっとという
細かくて面倒くさい作業を一手に引き受けてやっていました。

一日中、作業場の中を動き回っていました。
それが楽しくて仕方がないんです。

当時は、
後ろで、パートのおばさんたちが何をやっていて、
どこまで進んでいるか、
動きまわりながら見えていました。

ですので、
パートさんの作業が途切れないように、
次々と材料を渡していけました。

何人もいるパートさんに、
指示した作業が終わる頃に、
新しい仕事の材料を目の前に置いて
「次、これお願い!」と言うと、
なんで分かるの?、
のような顔をされるのが楽しかったんです。

手際良く作業の段取りを付けていくとパートさんに頼りにされます。

長く勤めて実力のあるパートさんは、
口先の言葉や単なる権力には従いません。
しっかり仕事をして、
頼りになる奴だと認めた相手でないと言うことを聞いてくれません。
面従腹背はしません。

時間に追われて、必死になって
作業をこなすことを要求される職場では本音しか通じませんでした。

どんなに注文量が多くても、5時には配送のトラックがきます。
それに間に合わせないといけません。
みんな必死です。

   ..パートさん達が納得できる作業手順を示さないと
     相手にしてもらえません。
     逆に、しっかりした作業指示ができ結果を出せれば
     本音で頼りにしてもらえます。

ですので自然の流れで、
チーフがいない時には、
私がみんなの作業の段取りをするようになっていました。



●夜間のコンピュータの学校へ

流通に生きるにしてもコンピュータの勉強は必要だと思っていました。
幸いにも加工センターは5時で終わりました。

ちょうど学校に行けました。
そこで、夜間のコンピュータの学校に通いました。
学校では汎用機を使ってプログラムを組んでいました。

当時はキーボードで入力するのではなく、
紙カードにパンチマシンで穴を開け(穿孔と言います)て、
それを読みこませてプログラムを入力します。
穴を空ける機械は、鉄の塊のようなまさにマシンでした。

勉強するうちにコンピュータも、面白いと思うようになりました。

毎日、学校に行くのですが..
時々、親しい職人さんに「行くか!」と言われます。
断れません。

行くのは、酒屋さん。
コップ酒。
つまみは6Pチーズや柿の種。
でも、短時間で終わります。
よかった。

お酒の匂いを誤魔化すために
ガムを噛みながら教室で下を向いて勉強していました。



●もっと勉強の環境を作りたいと他のスーパーへ

知り合いのスーパーの店長から、
 「うちに来ないか?」
 「社長と交渉して勤務時間も変えてもらえばいい」
と誘われました。
もっと自由に働き、勉強したいと考えていました。

そこで、こんな条件で雇ってくれますか?と聞きました。
 ・勤務時間は8:00〜17:00 (普通は、9:00〜19:00)
 ・週1回の休日はいらないから、週2回早退したい(14:00から早退)
   (当時は、週休1日が普通でした)
 ・土日祝祭日は、8:00〜19:00で働く
OKでした。

この会社で1年間働いたのですが、
休みは15日間くらいです。
月1回のお店の休みと年始のお休みだけだったので。
休みが無くても、元気で動き回っていました。

週2回の早退は、展示会や講演会などの勉強に行っていました。
五反田のTOCの展示会や、幕張でのチェーンストアフェアなど
あちこちに行っていました。

もちろん、夜間のコンピュータの学校にも行っていました。

このお店で挑戦したことは
 ・精肉の技術者である私の作業
 ・誰でもできるパートさんの作業
を明確に分けて、
パートさんに多くの作業を任せることです。
 
    ポラロイドカメラで、
    自分の肉の切り方を写して整理していました。
    今のようにデジカメがあれば..と思います。


そうやって、パートさんに任せ
できるだけ早く自分の仕事を終わらせます。

そして、鮮魚部に行きます。
鮮魚部では
掃除やゴミ捨てを率先してやっていました。
年配の鮮魚部のチーフには可愛がってもらいました。

午後の暇になった時間に
シメサバを作る時に、「やって見るか」と言われ
魚の三枚おろしを教えてもらいました。

そんなことをしているうちに、
鮮魚部のチープが休みの時は、
パートのおばさん達から「早く、こっちにきて」と
言われるようになりました。
嬉しいです。

ここでは社員寮に住んでいました。
寮は、お店の2階にありました。

そこで、魚の仕入れに築地の市場に連れて行ってもらいました。
トラックの運転をしたり積み下ろしをやっていました。
魚のことも知りたいと考えたので、
一緒に連れて行ってくれとお願いしました。

昔のことなので、
仕入れを誤魔化す職人さんもいました。
仕入れた事にして、差額をポケットに入れる。
帳尻を合わすために棚卸で売価を高く設定して誤魔化します。
売価を上げると計算上の利益がたくさん出るので不正をごまかすことができます。

特に鮮魚の職人さんです。
長く続かず、入れ替りが早かった。

   ..不正させない・できない仕組みが必要です。
     任せきりにしてしまうと、何が起きているか分かりません。
     仕組みを作るときに、障害・問題の発生、不正の可能性の明確化が必要
     
昔は、小さなお店では危ない人も多かったんです。



■ソフト会社へ転職 ------------------------------------------------

●汎用期のCOBOLプログラマーに転職しました

スーパーで無謀な転職計画を実行していたのですが、
またまた無謀にコンピュータの業界への転職をしました。
コンピュータの方が面白くなったからです。

普通の人より4年遅れてコンピュータ業界に入りです。
「年食っているのに、全然できない..」
そう言われていました。

「あんなできない奴に、夜食を食べさせるのはもったいない」
と、陰で言われたこともあります。

そりゃそうです..
ちょっと前まで、長靴をはいて、前掛けをしめて、
包丁を握っていたんですから。
できないんだから、仕方がありません。


当時のプログラミングは、コンピュータが手元にありません。

今のように、自分で打ち込んで上書きして
プログラムを修正するというようなことはできません。

紙のコーディング・シートに鉛筆でプログラムを書いて、
パンチャーに頼んで打ちこんでもらいます。
最初は失敗の連続でした。
徹夜の作業を無駄にしたこともありました。

夜中に六本木にあるマシンセンターに行って、
マシン(汎用機)を借りて、徹夜の仕事をしていました。
明けがた外を見ると、お墓があるんです。
これが私の若い時の六本木の思い出です。

だんだん慣れてくると..
どうやったら効率的なプログラミングができるかを考えるようになりました。
当時、プログラムの構造化が進められていたときです。

それを参考に、
自分なりの機能別のモジュールを作成するようになりました。

   ..集計や帳票の作成など、
     自分のプログラミングパターンを作っていました。
     条件に合わせて、
     組合せることで素早くプログラミングできました。

総武線沿いのチョコレート工場の生産管理の
システム開発に派遣された時のことです。

COBOLプログラムで1ヶ月に
2500〜3000ステップを組んでくれというのが契約でした。
でも、残業なしで10000ステップ作成したこともありました。
工場の方に喜んでもらい、飲みに連れて行ってもらいました。

事務処理はパターンが決まっているので、それに当てはめるだけです。
今から思えば、昔のプログラムは簡単でした。

プログラマーとして工場へ派遣された料金は、
1ヶ月50万円だったようです。
30数年前の事です。
今の派遣料はいくらでしょうか?
上がらないどころか、プログラマーでは下がっています。



■田舎に帰ってソフト会社へ ------------------------------------------------

●配管CADのシステム設計へ

長男だったので、田舎に帰りました。
COBOLで事務処理の開発から、
配管CADシステムの開発している会社に転職しました。

当時はパソコンが出始めでした。
CP/MからMS−DOSへの移行期でした。

http://museum.ipsj.or.jp/computer/personal/0005.html

沖電気IF-800 というパソコンを使っていました。
ハードディスクが7MBもあり大容量でした。
ホントに大容量で、ビックリしていました。
今では、考えられないですね。

私は、パソコンも初めて、配管CADも初めてでした。

その会社は、
もともとドラフターに向かって配管設計図を作成していた会社で
そこがソフト開発を始めたばかりです。
システム開発としては素人の集団でした。

みんなで手探り状態で開発を進めて行きました。

戸建て住宅の宅内配管のCADなので、
プラント設計のような精密なレベルではありませんが
単純に作図をするシステムではなく、
配管経路を追いかけて配管部品を自動で拾ったり
部材の積算をするシステムでした。

CADのデータ入力・作図出力があるので
事務処理のように文章で説明する様書だけを作っても訳が分かりません。
そこで、テンプレート(当時は、穴空き定規です)を使って、
A3の方眼紙に図解の仕様書を書いていました。

   ..大量の手書きの図解の仕様書を作っていました。
     これが今の図解につながっています。

配管の仕組みを理解して配管入力のプログラムの仕様書を書くには
頭の中だけで、言葉をこねくりまわしても見えてきません。
そこでやったのが
針金を曲げながら配管の形状をイメージすることです。

そんなことしていたのは私だけでした。
頭の外に、
形にして表現しないと見えてこないものがあります。

今思えば、「まさに、これが図解の極意!」です。



■平成元年に独立しフリーのSEに -------------------------------------------


●SEになって経験が活きました

プログラマーの時は苦労しましたが
独立して、フィールドSEになりシステム設計をする時に、
とても仕事がしやすくなりました。

フィールドSEとは
システムを導入するユーザーを訪問して、
どんなシステムを希望しているのか詳しく取材させていただき
システム設計を行う仕事です。

システム設計で最も大切な事は、
現場の要求や問題をいかに正しく理解するかということです。

現場体験があったので、
どんな現場にも違和感なく入っていけました。

それはそうです..
もともと長靴をはいて、前掛けをしめて現場にいたので、
パートさんと同じ目線で話ができました。

現場の業務の細かい点や苦労しているところなど
具体的に細部まで聞きとれたので、
頭の中に、
現場で「誰が・何を・どのように」作業を進めていくのか
ストーリーがイメージできました。

  ..SEで重要なことは、
    作業の流れを具体的にイメージできるかどうか!
    頭に映像が浮かばないと
    使えるシステム設計はできません。

4年間の流通での経験が役に立ちました。
今でも、スーパーに行くと、
バックヤードの動線や作業の進め方が気にまります。


●フィールドSEとして発見したこと

どんなシステムを求めているか
「要求」を取材し議事録にまとめ
「確認印」をもらい開発に進みます。

その打ち合わせ内容をもとに
システムを設計してプログラムを作成します。

でも、いざ導入テストになると
「ここが違う!」と指摘され修正を要求されることが何度もありました。

私が
  「打ち合わせしましたよね」
  「議事録にもあります」
と、記録を見せながら尋ねると
  「確かに、言った..でも..」
  「でもここは、こう修正してもらわないと使えない..」
となります。

こんな体験から
顧客が
   「口で言ったことと、望んでいることが違う!」
ということに気がつきました。

  ..顧客は、
    これから、こうしようとしいうことを
    明確な言葉にする事ができません
    当然なんです、未来のことですから

これに気づいたことから
顧客が
  ・頭の中で望んでいて
  ・上手く言葉にできない
  ・要求を理解する
ことが必要だと発見しました。

SEの取材は、
聞いたことを箇条書きのメモにすることから始まります。
 ・聞いたことを箇条書きのメモで書いて
 ・それを顧客の要求と考えて
 ・分類や整理をしてまとめて
それが顧客の要求だと考えてしまうことなのです。

実は、ここに問題があったのです。

顧客の発言は
 ・仕事の全体をシステムとして理解していません
 ・仕事の全体を漏れなく話していません
 ・発言の整合性を意識していません
 ・内容の正誤を確認していません
 ・未来に向かってどうしたいか考えた時間が少ないんです
 ・自分の利害を守ろうと恣意的な発言もあります
 ..
この状態の顧客の発言を、
そのまままとめて「要求定義」にして、
システム化しようとしても、
満足してもらえるシステムにはなりません。

ここで図解が役に立ちました。

取材したことを図解でまとめ「?」を尋ねることです。
「尋ねる」ことで、
 ・全体が見えてきます
 ・整合性の確認もできます
 ・誤解や誤りも発見しやすくなります
 ・理解のバイアスにも気がつきます

図解の力で、
顧客の要求を定義しやすくなりました。

  ...図解の機能は可視化と構造化!です。
     整理して書き出すと、
     箇条書きでは見えない部分が見えてくるのです!

図解を使うようになって、
システム開発の問題を減らせるようになりました。



独立してから、今の仕事に至る経緯は「会社概要」で!

バナースペース

有限会社 テオリア

〒942-0036
新潟県上越市東中島1943-91

TEL 025-531-1151
FAX 025-531-1152
info@teoria.co.jp